Arnold O. Beckman(1900~2004)

Arnold Beckman「優れた代替品では満足には至らない」

Beckman Instruments, Inc. (現ベックマン・コールター株式会社)創始者であり、名誉会長であるArnold O. Beckmanは、約100年にもわたる科学分野の際立った業績を象徴しています。5人の著名な科学装置発明家の1人とされるBeckman博士は、ヒト生物学の研究および理解に革命をもたらす装置を開発し、結果的に世界中で数え切れないほどの人々の命を救っています。

Beckman博士はかつて次のように述べました。「優れた代替品では満足には至らない」 言葉だけではなく、こうした哲学が彼の人生を導き、同時に科学の歴史のありようにも貢献しました。

Beckman博士は、その優れた功績を通して、教育者や発明家、市民運動の指導者、慈善活動家、および人道主義者など、様々な役割を担っていました。彼の輝かしい経歴の基礎をなしていたのは、常に、誠実な人柄と科学への愛でした。

1900年4月10日、イリノイ州カロームの小さな農村地区に生まれたArnold Beckman、幼いころに彼が科学に興味を持ったきっかけは、家の屋根裏部屋で見つけた化学の本でした。1861年に初版が発行されたSteeleの学習書シリーズである「Fourteen Weeks in Science」を読んで間もなく、彼は、10歳の誕生日に父親に作ってもらった道具小屋を仮設の科学実験室に改装しました。

Beckman博士はイリノイ大学に進んでますます熱心に科学を研究し始め、1922年に化学工学の学士号を取得し、1年後には物理化学の修士号を取得しました。在学中を通して、彼は無声映画でのピアノ演奏によってクリエイティブな才能も磨きつつ、家族を助け、自身の教育資金も稼ぎました。Beckmanは、カリフォルニア工科大学で光化学の博士号を取得し(1928年)、同大学で教授としてしても勤務しました。

大学在職中の1935年に、Beckman博士は後のBeckman Instruments, Inc.となる会社を設立しました。彼の最初の発明品は酸滴定器でした。南カリフォルニアの柑橘類処理プラントにいる元同級生のために、Beckmanはレモンジュースの酸度を測定するための酸滴定器を設計しました。酸滴定器は後にpH計と呼ばれるようになり、間もなく、分析化学には欠かせない計器となりました。この発明によって彼は1987年にNational Inventors Hall of Fame(全米発明家殿堂)に迎え入れられ、Thomas Edisonや、Alexander Bellなどといった偉大な発明家の仲間入りをしました。

Beckman博士はかつて次のように述べています。「なすべきことに直面したとき、それが発明のきっかけです。もし、あのとき[私の同級生]がレモンジュースの問題にぶつかっていなければ、pH計を作ろうなんてことは決して思いつかなかったでしょう」

Beckman博士は科学装置の開発と製造を続け、1940年、分光光度計DU®の発表に至りました。Model Tと科学的に同等とみなされたこの製品は、ラボラトリーでの単調な手順を簡素化したばかりか、分析精度を向上させ、化学分析に革命をもたらしました。

Arnold BeckmanとRonald Reagan大統領こうした、科学への並々ならぬ貢献によって、1989年、George H.W. Bush大統領はBeckman博士にアメリカ国家科学賞(National Medal of Science)を授与し、博士の分析装置開発における指導力と米国科学界の活性化に対する深い心遣いをたたえました。また、Reagan政権下でも、1989年には彼のすばらしい業績をたたえてPresidential Citizens Medalが、1988年には米国内の科学技術への著しい貢献をたたえてアメリカ国家技術賞(National Medal of Technology)が授与されました。

Beckman博士の科学への愛と発明の精神はベックマン・コールター株式会社で生き続けています。ささやかな規模ではじまった会社が、現在では装置・機器メーカーとして、また臨床診断およびライフサイエンス市場へのサプライヤーとして、世界をリードしています。現在当社は、世界の35の施設で約10,000名の従業員を雇用し、120を超える国と地域で事業を展開しています。

長年にわたり、当社は、火星探査ロボット用の「岩石粉砕機」やHelipot®と呼ばれる電子無線のような部品など、多種多様な製品を開発してまいりましたが、Beckman博士が大切にしていた「生命の化学」から逸脱したことはありません。

「これまでの報いが様々な形で表れています」1985年、Beckman Instruments, Inc.の50周年記念行事で、Beckman博士はこのように述べています。「中でも最大の報いは、おそらく、ベックマンの製品から得られた知識が人類の進歩に役立ってきた、そして現在も役立っているということです」

1997年10月、Beckman Instruments, Inc.は、マイアミに拠点を置く細胞分析システムメーカーであるコールター社を買収しました。1998年4月、会社名をベックマン・コールター株式会社に改称し、現在ではラボラトリーシステムとソリューションの主な供給業者の1つに成長しました。

所属学術機関

Beckman博士は、その素晴らしい経歴を通して、常に教育と研究に積極的に関わってきました。1953年、カリフォルニア工科大学の卒業生として初めて、同大学の評議委員となり、1964年~1974年まで評議委員長を務め、在職中に名誉評議委員長にも選ばれました。カリフォルニア工科大学はBeckman博士を讃えてDistinguished Alumni Award(1984年)、Millikan Award(1985年)を授与しました。

Beckman博士はカリフォルニア大学アーバイン校の助言委員会、イリノイ大学の学長委員会、およびロックフェラー大学の評議委員会のメンバーでした。また、カリフォルニア州立大学フラトン校、およびカリフォルニア州オレンジカウンティのチャップマン大学の助言機関メンバーであり、カリフォルニア州オークランドのミルズカレッジの地域理事でもありました。

Beckman博士はカリフォルニア大学リバーサイド校、ロヨラ大学ロサンゼルス校およびペパーダイン大学で名誉LL.D.を授与されました。また、イリノイ大学、チャップマン大学、およびウィディアカレッジ(カリフォルニア州)、クラークソン大学(ニューヨーク州ポツダム)、 イリノイウェズリアン大学(イリノイ州ブルーミントン)、ロックフェラー大学(ニューヨーク)から名誉科学博士号を、カリフォルニア州立大学フラトン校、イリノイ州立大学(イリノイ州ノーマル)から名誉人文博士号を授与されました。

「教授という形であれ、それ以外の形であれ、私は常に物事を説明することを楽しんできました」とBeckman博士は述べています。「頭の中で考えていることを伝達するということで、自分の能力に挑戦するのです」

慈善活動

Beckman夫妻の肖像史上もっとも偉大な慈善活動家とされているBeckman夫妻は、Arnold and Mabel Beckman財団を通じて、科学研究と教育活動の前進のために約4億ドルの寄付を行ってきました。こうした寄付によって、夫妻は米国内の多くの科学、教育、そして医学研究機関を支援してきました。

「私は科学者に機器・装置を売ることで富を蓄積してきました」Beckman博士は自身の偉大な慈善活動について控えめに述べました。「ですから、科学者の役に立つことが当たり前と考えてきましたし、それを慈善活動の基本精神として、最も大事にしてきました」

Beckman博士の方針に応えて、Arnold and Mabel Beckman財団は彼の希望を実現させるためのプログラムを開始しました。

1991年、Arnold and Mabel Beckman財団は、米国内の著明な大学および研究機関において研究活動に取り組む128の若手の科学者に対して、Beckman Young Investigator(BYI)として総額2400万ドルの助成金を授与しました。

1997年、Arnold and Mabel Beckman財団はBeckman奨学金プログラムを開始し、米国内の選ばれた大学およびカレッジにおいて化学、生物化学、生物学、および医療科学分野の特に優れた学部生を奨学生として承認しました。今日までに、36大学で134名の学生がこの奨学金を受けています。

Beckman博士は、科学教育はあらゆる側面からみて極めて重要であり、3~4歳の幼いころから開始するべきだと考えていました。「特に、幼い子どもたちに、科学への関心を持ってほしいと願っています」と、博士は述べています。「幼い子どもたちは探求心に満ちています。つまり、科学に対する熱意をどのようにかきたてるのかを心配する必要はなく、彼らの持つ関心や興奮を持続させさえすればいいのです」

1998年秋、Arnold and Mabel Beckman財団は初等教育(K6)における科学教育構想としてBeckman @ Science Programを立ち上げ、カリフォルニア州、オレンジカウンティの小学生30万人を支援しました。2003年までに、Arnold and Mabel Beckman財団は、Beckman夫妻を代表して、科学教育プログラムに約1450万ドルを拠出し、実践的な探求型科学学習プログラムを通じて、子どもたちの好奇心をとらえ、科学に対する興味・関心を刺激してきました。

1999年、Arnold and Mabel Beckman財団は Beckman Research Technologies構想の一環として、250万ドルの助成金を授与する2つの5ヵ年助成制度を作りました。この構想は、基本的な研究課題の新たな解決法を生み出す可能性が高い、先進的な分野の科学研究に役立つ新たな研究技術の開発を支援するものです。この助成金はミネソタ大学およびテキサス大学オースティン校に授与されました。

さらに、Arnold and Mabel Beckman財団は5つのベックマン研究所および研究センターの研究も継続的に支援しています。これらの研究所および研究センターはカリフォルニア工科大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、City of Hope Hospital and Medical Center、スタンフォード大学、およびカリフォルニア大学アーバイン校ベックマンレーザー研究所にあります。

Arnold and Mabel Beckman財団の所在地はカリフォルニア州アーバインであり、ベックマン・コールター株式会社とは別の事業体です。

企業団体

Arnold Beckman社のウェブサイトBeckman博士はアメリカ計測学会の創始者であり、終身会員です。同学会は、1960年に計測装置のデザインに対する顕著な技術的貢献を讃えるためのArnold O. Beckmanアワードを設立しました。1981年、機器・装置類の開発実績と社会への貢献を讃えて、同学会初の功労賞がBeckman博士に与えられました。

Beckman博士は、全米技術アカデミー、米国化学会、ニューコメン協会会員であり、アメリカ臨床化学会の名誉会員でもありました。1977年、アメリカ臨床化学会は第1回Arnold O. Beckman Conferences in Clinical Chemistryを開催し、臨床科学者や医師等が抱える重大な議題について検討しました。

1981年、米国工学連合会は、精密測定器および分析装置の開発におけるBeckman博士のリーダーシップに対して、また、教育、市民活動および公的活動における長年の活動に反映された人的価値への深く、絶え間ない関与に対して、Hoover Medalを授与しました。

Beckman博士はアメリカ科学振興協会およびAssociation of Clinical Scientistsの会員で、1982年にはDiploma of Honorを受賞しています。彼はアメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員であり、Great Britain's Royal Society of ArtsのBenjamin Franklin Fellowでもありました。

市民活動

Beckman博士は、倫理的にも道徳的にも強い信念をもち、常に地域社会全体への還元を考えていました。

博士が常に懸念していたことの1つに、大気汚染問題の高まりがありました。博士は光化学スモッグの原因についての研究を開始し、後にそれが、ロサンゼルス郡における汚染物質の制御と警告手順の開発に役立ちました。

1953年、Beckman博士はカリフォルニア州知事の指名を受けて、大気汚染の特別技術委員会委員長を務めました。この委員会による科学的な見解とスモッグ減少に向けた推奨内容の報告書は、その後の汚染制御プログラム作成の際の基本的な参考資料として役立ちました。1970年、Nixon大統領はBeckman博士を4年の任期で米国の大気質管理委員に任命しました。

1972年、博士は、州および米国内における大気汚染制御のための継続的な活動、並びに人類の知的な進歩に役立つ新たな装置の開発に対して、カリフォルニア州オレンジコーストのコミュニティカレッジ地域からその年のOutstanding Citizen of the Yearを授与されました。

Beckman博士はHouse Ear Instituteの監督委員会メンバー、Hoag Memorial Hospital Presbyterianおよびスクリプスクリニック研究財団の理事も務めていました。彼はまた、California Museum Foundationの名誉役員でもありました。

Beckman博士は、1956年にはロサンゼルス商工会議所の、1967年にはカリフォルニア商工会議所の所長を務めました。彼は、Security Pacific National Bank、サザンカリフォルニアエジソン社、コンチネンタル航空、SCMコーポレーション、スタンフォード研究所の理事も務めました。また、南カリフォルニアモータークラブ、Southern California Symphony Associationの理事でもあり、System Development Foundationの評議委員長でもありました。長年にわたる優れた政治の促進に対する関心から、Beckman博士はLincoln Club of Orange Countyの設立を支援し、設立当初の1962年から名誉委員長に選出された1978年まで、同団体の委員長を務めました。

Beckman博士はオレンジカウンティの記者クラブから「Headliner of the Year」に選ばれ、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、およびOrange County Heart Fundの南カリフォルニア委員長も務めました。1985年、博士は北オレンジカウンティYMCAから、Humanitarian of the Yearに選ばれました。

2004年5月18日、Beckman博士は安らかにその一生を終えました。

Arnold O. Beckman氏が取得した特許

特許番号、タイトル
1,684,659 信号装置
2,038,706 インク・リール
2,041,740 インク装置
2,058,761 酸性度検査機器(pH計)
2,277,287 パン包み紙などの包装資材
2,302,097 液体分注用噴出器具
2,348,103 土壌の油層調査
2,351,579 定量方法および装置
2,351,580 定量方法および装置
2,454,986 可変抵抗デバイス(Helipot)
2,473,048 可変抵抗デバイスユニット
2,613,126 大気中のガス濃度記録装置
2,755,243 電気化学的電極構造
3,234,540 熱吸収翼およびサーミスタ用メーター指針位置モニタリング器具